鳥人間コンテストの安全性を考える 第1回 自己責任とは何か

これまで九州工業大学チームの鳥人間コンテスト事故について、事故の分析と裁判を中心に考えてきた。しかし問題は、ひとつのチームのひとつの事故だけで終わるものではない。今回からは話題を変え、鳥人間コンテスト全体にある様々な問題について考えていく。

私は、大学時代にサークルチームで鳥人間コンテストに出場、卒業後は社会人チームで数回出場した。と同時に、パラグライダー歴15年ほどのパイロットだ。その経験から鳥人間コンテストを振り返って考えると、非常に多くの問題があることに気付くのである。今回は、鳥人間コンテストにおける自己責任の考え方について分析してみる。九工大事故でも「パイロットの自己責任」という意見がネット上でも、また鳥人間関係者の間でも多く聞かれた。では鳥人間コンテストに自己責任は成立するのだろうか。

スカイスポーツの自己責任

スカイスポーツは、自分自身のために空を飛ぶものだ。だから、事故に対しては自己責任が大原則だ。鳥人間コンテストも基本的には自分が飛びたくて飛ぶのだから、自己責任を原則とするべきなのは言うまでもない。しかし、自分自身のためだけでない、他の要素が含まれてしまうと、自己責任の前提が崩れてしまう。ここで私は、自己責任を成立させるために必要な条件を以下のように考える。

  1. パイロット自身が、安全を判断するのに必要な知識とモラルを身につけていること
  2. パイロットが、安全を確保するために必要な情報を知り得ること
  3. パイロットが、飛行の判断をするときに、他人から圧力を受けないこと

これは私の考えであってスカイスポーツの世界でコンセンサスのあるものではない。この3つの視点をたたき台として、スカイスポーツの自己責任を考察し、鳥人間コンテストと比較すると考えて頂きたい。

パイロット自身が、安全を判断するのに必要な知識とモラルを身につけていること

私がこれを真っ先に挙げたことには、違和感を持つ方が多いかもしれない。必要な知識とモラルを身につけているかどうかも含めて、自己責任ではないか。身につけずに飛んで事故を起こしたら、それこそ自己責任ではないかと。

しかし、私はこれを第一に掲げる。それは、このことが鳥人間コンテストと他のスカイスポーツの最も大きな違いと言えるからである。

私はパラグライダーで飛行するにあたって、日本ハング・パラグライディング連盟(JHF)のライセンスを取得し、会員になっている。パラグライダーは日本の法律上はとくに許可や免許を必要としていないので、これは任意のものだが、パラグライダー競技者(フライヤーと呼ぶ)の大半はJHFなどの団体の指導のもとで飛んでおり、離着陸場などの施設はライセンスを持った人にしか使用させない。

それは、我々フライヤーが空を飛べるのは、法律の規制、地域の理解など多くの点で社会的に「許してもらっている」という自覚があるからだ。もしパラグライダーの無秩序な飛行で死傷事故が激増したり、第三者に多大な迷惑を掛けるなどして度を超すようなことになれば、地域の方々から反対運動が起きたり、パラグライダーを禁止する法律ができたりして、飛べなくなってしまう可能性もあるだろう。

だから、パラグライダーのライセンスを取得する際の学科講習では、空を飛べるのは「当たり前」ではなく「みんなで築き上げてきた自由」だということを教わるのである。空を飛んでいる限り、事故を起こす可能性とは常に背中合わせなのだから、安全に飛ぶための情報交換を欠かさず、トラブルがあればみんなで助け合い、ビギナーのことはサポートする。そうやって全員が連帯感を持って事故を防止し、「飛べる自由」を守っているのだ。

鳥人間コンテストには、この「人力飛行をする自由を自分達で守る」という認識がない。鳥人間コンテストは読売テレビが30年以上続けている番組であり、そこで人力飛行機が飛べるということに疑問を持つ者はほとんどいないと言ってよいだろう。しかも参加者の多くは大学生なので、過去の事情や他のスカイスポーツの常識、関係法令などは知らない。以前の記事で書いたように鳥人間コンテストが法的にグレーであることは知っていても、それを根拠に規制されることまでは考えていない人が多い。「飛べるのが当たり前」なのだ。

彼らにとって、事故を起こすのは「ダメなチームがダメなことをした」のであって、それで自分達が影響を受けるのは不当な迷惑以外の何物でもない。だから、他チームで事故が起きても関心はないし、それを騒ぎ立てるのは「自分達を巻き込む余計な行為」としか映らない。ちなみに、この連載の第5回を公開してから今回の更新時点までのPVは12万を超え、Twitterなどで非常に多くのリアクションがあったが、その間に鳥人間関係者から私へのリアクションは数えるほどしかない。

念のため書き添えておくと、鳥人間でも安全上の努力はよく話題になるし、重要なことと認識されている。しかし、私から見るとそれはスカイスポーツとは根本的に異なる。スカイスポーツの安全努力が「自由を守るため」という切実なものなのに対し、鳥人間は「より高いレベルを目指すため」という上昇志向のものだ。だから、事故を起こすチームがなくなるように努力するのではなく、自分達のプライドや満足感を得ることに集中し、事故を起こした者に対しては侮蔑の目を向ける者すら少なくないのだ。

鳥人間コンテストが他のスカイスポーツを同じように、自己責任を前提として健全に運営されるためには、参加者全員に「何のための責任か」を充分に周知し理解させる教育体制が必要だろう。しかし、読売テレビにはそこまでする意欲も余力もないし、参加チームは技術や知識を引き継いではいても、こういった根本的な思想はほとんど教えていないのである。

パイロットが、安全を確保するために必要な情報を知り得ること

自己責任と言っても、責任を負うためには情報がなければ判断のしようがない。安全性を判断するうえで重要な情報は、機体、地形、気象の3つに分けられると考えるが、鳥人間の場合は地形と気象については誰でも知り得るので、重要なのは機体に関する情報だろう。

機体が壊れるか壊れないか。どうすれば壊れる可能性があるが、どうすれば壊さずに飛べるのか。どう操縦すると安定を失う可能性があるが、どうすれば安定して飛べるか。そういった情報がわからないままでは、パイロットは安全に飛べるかどうかの判断ができない。裏を返せば、そういった情報が充分でないなら飛ばない、という判断もパイロットの責任の範疇と言える。

これがエアラインの航空機であれば、その機種が本来持っている性能や特性は、航空機メーカーから示されている。速度、高度、傾き、加速度など様々な条件があり、その範囲であれば安全を保証しているわけだ。さらに整備員が機体の状態を確認し、責任を持ってパイロットに伝える。これらの情報をもとに、パイロットは安全性の判断を下す。パイロットは最終確認をするが、その情報は機体全体のごく一部でしかないし、パイロットが知り得ない原因で起きた事故であればパイロットの責任ではない。

パラグライダーなどのスカイスポーツでも、やはりメーカーが保証する性能が存在する。これは国際標準に基づく試験で保証されており、機体の強度、安定性などを細かくチェックして、初心者向けや上級者向けなどのランク分けをしている。強度試験は機体が破壊するまで力を加えて行われるし、安定性はテストパイロットの手で項目ごとに客観的に確認されている。我々フライヤーはこのランクで機体の概ねの安定性を知ることができるし、どのランクでも試験を通過している機体であれば充分な強度を有しているのは間違いない。もし機体の製造不良で事故が起きれば、それはメーカーの責任になる。

鳥人間の場合、こういった基準は存在しない。鳥人間コンテストに出場するには、読売テレビの書類審査だけが条件なのだが、それは簡単な図面と説明文書だけのもので、読売テレビ側では詳細な性能の検討はできない。試験による確認などは義務付けられておらず、必要な試験を適切に行うように、といった抽象的な指示があるだけだ。

そして鳥人間チームは、自分達の手で人力飛行機を設計製作し、その性能を競うことを目的としている。チームの中でパイロット以外の者は、「作った飛行機を飛ばしたい」のだ。だから、不安が拭い切れなくても「これくらいならきっと飛んでくれるだろう」という判断に傾きがちだし、また不安を口に出しにくい。

また、鳥人間コンテストをテレビで観ていればわかるように、機体が空中で壊れることはむしろ「番組の華」として盛大に取り上げられる傾向にある。だから、翼が折れたりすること自体を殊更に問題視することはこれまでなかった。私自身の激烈な反省を込めて白状すれば、「自信がなくてもみんな出場してる」ぐらいに考えていたのだ。今にして思えばとんでもないことである。これでパイロットに怪我をさせれば「過失傷害」どころか「未必の故意」なのではないか。

九工大事故の場合、設計に問題があった可能性が高いにもかかわらず、強度試験や飛行試験をほとんどしておらず、結果として大会本番では自壊してしまっている。また裁判では設計者側から「パイロットがペダルを漕ぎすぎたために壊れた可能性」などが指摘されているが、それで壊れるのであれば「ペダルを漕ぎすぎると壊れる」ということをパイロットに示す必要があった(もちろん主翼が壊れる理由になるはずがない詭弁ではある)。もちろん、パイロットにそのような指示は出されていない。

では、どうすれば安全性を確認したと言えるだろうか。安全基準を作成する団体は鳥人間には存在せず、各チームの裁量に任されているのが現状である。九工大事故では、設計製作側の認識が明らかに欠けていたし、それを確認するべきパイロットの認識も欠けていた。あまりにもずさんな状況で、起きるべくして起きた事故である。しかしどのチームでも、安全性が充分かどうかを判断するに足る基準は、実は存在していないのである。

パイロットが、飛行の判断をするときに、他人から圧力を受けないこと

パイロットの自己責任、すなわちパイロットに最終的な責任を負わせるためには、最終的な決定権がパイロットにあることは言うまでもない。誰が何と言おうと、どのような事情があろうと、パイロットが飛ばないと言ったら飛ばない。これが必須条件である。

エアラインの場合、パイロットは仕事で飛んでいるのだから、正当な理由がなければ飛行を拒否することはないだろう。しかし、判断が微妙な場合はパイロットの判断が優先する。何かあったとき、対応できるのはパイロットだけだからだ。

スカイスポーツの場合、パイロットが飛びたくなければ飛ばなくてよい。レジャーであれば当然だが、競技会であってもこの点に代わりはない。競技会で事故が起きれば、パイロットだけでなく大会運営や、ひいてはスカイスポーツ全体が批判に晒されることになる。パイロットが飛びたくないと言っているのに飛ばすことは考えられない。

ところが鳥人間コンテストのパイロットは、2つの大きな圧力に晒されている。ひとつはチームメイト、ひとつは大会事務局からだ。

鳥人間コンテストは他のスカイスポーツと異なり、あらかじめ用意された機体でパイロットの技量を競うものではない。競技で競われるのはむしろ、機体の性能だ。機体の設計製作は、チームにもよるが学生チームの場合、10名前後から数十名のメンバーがまる1年かけ、学業以外の時間をほとんど注ぎ込み、また費用をバイトで稼いで行ってきたものだ。そのようにして作り上げられた機体の目的は鳥人間コンテストで飛ばすことであり、これをパイロットの一存で「飛ばしたくない」と判断するのはきわめて難しい。

九工大事故の場合も、荷重試験をしていない、操縦系に故障があるといった重大な問題があるにも関わらず、チームの仲間達は「大丈夫だから飛んでくれ」と言っている。この状況でパイロットが「いや、飛ばない」と言えば、人間関係は破綻するだろう。しかし、事前に「どんな試験をしなければならないか」「どういう状態では飛んではいけないか」という基準が整備されていれば、設計製作メンバーが「全ての項目をクリアしたので、飛んで欲しい」とパイロットに引き継ぎを行うことになる。逆に、クリアしていなければ引き継ぎができず、パイロットは飛行の条件が整っていないことを理由に「飛べない」と判断できる。

私は昨年、鳥人間チームが交流するイベントの機会に講演してこう述べた。
「鳥人間チームの設計製作メンバーは、パイロットの間に誓約書を交わすべきだ。機体の設計製作に関することはチーム全体の責任であって、事故の際はパイロットを見捨てたりしないと。そういう誓約ができないチームであれば、パイロットは降りた方が良い」
しかし、読売テレビは今年、これとは全く逆の趣旨のアドバイスを参加チームに与えている。曰く「パイロットは、飛行前に機体の安全を確認し、自分の責任で飛行の判断を擦ること」と。つまり読売テレビは、今後鳥人間コンテストで事故が起こってもそれはパイロットの責任にするよう、各チームで手を打っておけとアドバイスしているのだ。

「自己責任」が形骸化した鳥人間コンテスト

これまでに述べた通り、鳥人間コンテストはパイロットやチームのメンバーが充分な知識と判断力を備えているか確認しておらず、パイロットが機体の安全性を確認するための制度が整備されていない。にもかかわらず、パイロットは全責任を自分で負って飛ぶことを求められているのである。果たして、このような状況でパイロットは、自己責任でフライトすることが可能なのだろうか。私には到底、そうは思えないのだが。

冒険的なチャレンジは常に、生命のリスクを伴う。だから、「リスクがあることをしてはいけない」と言ってしまえばチャレンジはできなくなってしまう。命を賭けるに足るチャレンジをするのは個人の自由であり、それを裏打ちするのが「自己責任」だ。

次回からは、鳥人間コンテストで過去に起きた具体例を挙げ、大会の構造的な危険性を検証していく。