鳥人間コンテスト事故の深層 第2回:チーム側の不自然な反論

この事件に関心がある方々で、チーム側(前回定義した通り、当時の学生チームのリーダー達)に同情的な意見を持つ方は、こんなふうに考えるのではないだろうか。

「鳥人間コンテストは最終的には湖に落下する競技であり、どれほど注意深く人力飛行機を作っても、パイロットが負傷する可能性はある。その結果、負傷の程度が予想以上だったとしても、パイロットはそれをもともと承知していたはずではないか」

もし私が彼らの側だったとしても、そのように主張するだろう。しかし、彼らの主張はそれとは大きくかけ離れていた。今回は、彼ら「チーム側」の主張を見てみよう。

「責任は読売テレビにあって参加者にはない」と主張

責任に関する、チーム側の主張はこうだ。KITCUTSは航空工学をかじっただけの素人集団である。鳥人間コンテストは素人が出場する大会であり、そのためにプラットホームを設けて離陸を容易にし、誰でも気軽に参加できるようにしている。また、うまく飛べずに落ちるチームも毎回放送し、プラットホームから落下する様を見せて楽しませるという面もある。読売テレビが「素人である参加者に代わって機体の安全性を十分に審査・確認する義務を負っているものであり、参加者が高度な注意義務を負うことはない」と主張した(以下、斜体文字は答弁書原文引用)。

つまるところ、原告である川畑さんが「責任の一端はチーム側にもある」と主張したのに対し、チーム側は「自分達は素人であり、鳥人間コンテストは落ちることも楽しんでいるのだから、責任は自分達にはなく、読売テレビにある」と主張したわけだ。

第三者がこういうことを言ったら、おそらく多くの鳥人間コンテスト出場者は侮辱だと感じるだろう。鳥人間チーム、特に設計やチーム運営に当たる者は、未熟な大学生ながら必死に航空工学を学び、先輩や他のチームに教えを乞い、全力で人力飛行機を作り上げる。それが時には、はかなくも落下するからこそ、本物の悔し涙を流すのだ。
素人が誰でも気軽に参加して落ちることを楽しむ大会なんだから失敗してもいいだろう、事故があったら読売テレビのせいだ、などと考える者はいない。いくら裁判での反論と言っても、そこまで自分達の過去の活動を貶める必要があるのだろうか。

設計は適切だったか

原告側は、機体の設計ミスが破損の原因であると主張した。まずこの設計について見てみよう。
人力飛行機の主翼は、「主桁」と呼ばれる頑丈な構造に、発泡スチロールやフィルムで肉付けして作られるのが一般的だ。翼が折れないように大きな力に耐える主桁には、炭素繊維強化プラスチック(CFRP)のパイプが使われる。航空宇宙分野やスポーツ用品で使われる材料で、「カーボン製」と言い換えた方が馴染みがあるかもしれない。

近年の人力飛行機は、翼の幅が30m前後と非常に大きい。大きくなるほど翼を曲げる力は強くなるので、頑丈なパイプを使わなければならない。しかし事故機の設計図を見ると、主翼が折れた箇所のパイプの直径は60mm未満しかない。一方、やはり30m前後の主翼幅がある多くのチームの図面を見ると、この付近のパイプ直径は100mm前後である。直径が6割程度しかないのだ。
丸パイプの場合、厚みが同じであれば強度は直径の2乗に比例する。直径が6割であれば、曲げに対する強度は1/3程度しかない。
念のため、複数の優勝経験チームの設計担当者に、この図面を見てもらった。彼らは絶句し、次に「この設計で、もつとは思えない」と口を揃えた。次いで、念のため設計プログラムを使って検証してもらったが、エラーが出てしまった。歪みを計算するためのプログラムなので、壊れるほど大きな歪みではプログラムの想定範囲を超えてしまったようだった。

「原告は人力飛行機を理解していない」と主張

チーム側の反論はこうだ。人力飛行機は、軽く作らなければ飛ぶことができない。パイプは細いほうが軽いのが当然だ。細ければ弱い、などということはない。細くてもパイプの厚みがあれば同じ強度は保てるのだ、と。

この反論も、鳥人間経験者や構造エンジニアであれば失笑ものだろう。「細いほうが軽い」「厚ければ強い」というのは正しい。しかし同時に「細いほうが弱い」「厚ければ重い」である。では「細くて厚い」パイプは重いのか、軽いのか。
先ほど説明した通り、厚みが同じならパイプの強度は直径の2乗に比例し、重量は直径に比例する。従って、厚みが同じで太さが6割のパイプは、強度が約1/3で、重量は6割となる。
次に厚みについて考えてみると、強度は厚みに比例し、重量も厚みに比例する。先ほどの「直径6割パイプ」の強度が元のパイプと同じになるようにするには厚みを3倍にすればよく、重量は約2倍になってしまうのだ。強度が同じなら、細くするとパイプは重くなるのである。軽く作るために細くしたのであれば、同じ材料で同じ強度を保つことは不可能なのだ。

さらに、チーム側はこう主張した。
鳥人間コンテストディスタンス部門の主目的は、当然に飛距離を伸ばすことに求められる。原告のこれまでの主張は、鳥人間を飛行させ、飛距離を伸ばすという本来的な目的を忘れた、ただ機体の強度のみに注視した主張であり、前述のような人力飛行機の性質につき何も理解していないと言わざるを得ない。原告主張のように、ただ壊れないことのみに注目した機体(=抗力の観点しか考慮していない機体)を製作するのは至極簡単であり、非常に頑丈な材質を用いて機体を構築すれば足りるが、そのような重い機体が浮くはずもない。
※原告側は「抗力」という観点での主張はしていないので、なぜ抗力が出てきたのかは不明。

「人力飛行機の素人集団」を自称する彼らがここまで言い切るのは驚きだが、およそ他の鳥人間チームの賛同を得られる内容ではない。誰も、絶対に壊れない機体を作れとは言っていない。鳥人間チームはいずれも、飛行前には壊れない程度の強度は備えるように設計している。なぜなら、飛行前に壊れてしまったら、飛距離を伸ばすどころか全く飛べないのだから。しかし人力飛行機は「浮くはずもない」どころか、滑走路から自力で離陸し、琵琶湖を往復することすらあるのだが、彼らは何を言っているのだろうか。

「試験飛行をしなくても安全確認は可能」と主張

原告側からは、チームが充分な試験飛行による確認を怠ったことも主張された。

一般的に、人力飛行機は鳥人間コンテストの前に試験飛行を行う。グライダーの滑走路などを借りて、まず地上を走行するところから開始。徐々に速度を上げ、プロペラや車輪、操縦装置などが正常に作動するか、主翼が設計どおりきれいにたわんでいるかなどを確認する。次いで、飛行速度まで速度を上げると、人力飛行機は滑走路から離陸する。このとき重心位置が悪いと急上昇して失速したり、いくら加速しても浮かなかったりするので調整する。最初は少し浮いたら下ろし、徐々に距離を伸ばして機体を調整しつつ、パイロットの訓練も行う。早朝の無風状態でなければできないため1日の走行・飛行回数は限られ、また天候にも左右されるため数か月かけて述べ数日間行われるのが一般的だ。

KITCUTSは、この試験飛行をほとんど行っていない。1回目は悪天候で延期。2回目は試験走行中に主翼が破損したため離陸に至らなかった。つまり、一度も「飛行中の荷重に主翼が耐えられること」を確認しないまま、本番に臨んだのである。前回説明した通り、この機体は鳥人間コンテスト本番で、車輪で滑走している最中に主翼が折れるほど弱かった。であれば、試験飛行で離陸を試みれば、その時点で主翼が折れていた可能性が高い。それをせずに「3回目の試験飛行をしなくても問題ない」と判断したことが重大だと、原告は主張しているわけだ。

なお、この点については読売テレビも関係している。読売テレビはKITCUTSの書類選考合格の付帯条件に「充分に試験飛行を行うこと」と明記している。この付帯条件は全チームに書かれているわけではなく、チーム個別に書かれたものだ。KITCUTSは読売テレビへの参加申請書に自ら「試験飛行を4回実施する」と明記しており、読売テレビはわざわざ合格通知で念を押している。もしかすると書類選考段階で主翼の強度に不安を持っていたのかもしれない。そして大会前日の機体検査(全チームに対して目視検査とヒアリングが行われている)で読売テレビはKITCUTSに試験飛行の結果を尋ね、「ふわっと浮いた」と聞いた、というのが読売テレビの主張である。

これに対するチーム側の主張は「試験飛行では浮いていない。浮いていないのだから『ふわっと浮いた』などと言うはずがなく、読売テレビは嘘をついている」というものだった。約束を守らなかったことを咎められたときの開き直りとして、これほど大胆なものを私は知らない。

そして、試験飛行を行わずに済ませた理由を挙げている。試験飛行をしているのは強豪チームが記録を伸ばすためであって、安全のためではない。安全性は設計で確認可能であり「原告が、飛行試験の意義・目的をはき違えていることは明らかである」と主張した。

何をかいわんや、である。現に機体は離陸前に自壊しており、設計だけでは安全性が確認できていないことは明らかだ。しかも試験走行の段階で主翼は壊れており、それで試験飛行を打ち切ったのだから、浮上しても壊れないことは確認できていない。皆さんは「ロープに試しにぶら下がったら体重で切れてしまった」のに、新しいロープを確認しないで登山に行くだろうか?問題は原告であるパイロットも含め、チームでどのような判断を行った結果、再試験なしで本番に臨むという意思決定がなされたかであろう。

さらに、チーム側はこうも主張する。「原告の主張は、費用も掛かり、物理的な場所を確保できなければ実施できない飛行試験を数回行うことが可能なチームでなければ鳥人間コンテストに参加してはならないと主張しているに等しい」と。しかし、鳥人間チーム経験者なら誰でもこう答えるだろう。「鳥人間に金と手間がかかるのは当たり前じゃないか」
ちなみに、東京都内の鳥人間チームはいずれも、静岡県や埼玉県の飛行場まで多額の費用をかけて通っている。大学と同じ北九州市内にある旧北九州空港の滑走路を無償で使用できるKITCUTSは、私から見れば羨ましい環境だ。

不自然すぎる主張

ずいぶん長くなってしまったが、これがチーム側の主張だ。私が要約し、意見を書き加えているからバイアスがかかっていることは否定しないが、出鱈目を書いたつもりはない。基本的に彼らの主張は上記の通りだ。読んで下さった方々はどう感じただろうか。

私は「いくら何でも、こんな支離滅裂な主張が通るわけがない」と感じた。工学の専門家ではない裁判官に対しては丁寧な説明が必要だろうが、それでも異常性は理解されるだろう。また、事故当時の知識や経験が未熟であったために判断能力がなかったと主張するならともかく、現在も「飛行機の性能は安全性と相反する」「試験飛行しなくても安全性は確認できる」と主張する人物が、航空機メーカー等で仕事に就いているのは驚くべきことだ。そんなことはあり得ない。

…そう、そんなことはあり得ない。ここまで答弁書を読み進めてきて、私の脳裏に浮かんだのはそれだ。「いくら何でも、こんな支離滅裂な主張をするわけがない」と。そう考えて他の情報も併せて考えていくと、この答弁書への疑念がさらに深まっていくのである。

チーム側の答弁書は、チーム側の5人の元学生達の意見ではないのではないか、と。

鳥人間コンテスト事故の深層 第1回:何が起きたのか

雑誌記事にもなった鳥人間コンテスト事故裁判だが、実際に何が起き、どんな訴訟が行われているのか事実を整理した資料は少ない。そこでまず、この事故の経緯を事実ベースで整理してみよう。

まず、過去の報道や私の発言については以下のリンクを参照して頂きたい。また本ブログでの鳥人間関係記事は、鳥人間タグでまとめて見ることができる。

女性自身の記事

鳥人間コンテストの事故について、鳥人間の立場から考える

鳥人間コンテストはバラエティー番組

事故が起きたのは2007年の鳥人間コンテスト人力プロペラ機部門だった。ここで鳥人間コンテストとは何か、から整理する。

鳥人間コンテストは、読売テレビ放送株式会社(以下、ytv)が制作するテレビ番組であり、その収録現場のことである。関西以外では日本テレビ(以下、NTV)系列の各局で放送されるが、NTVとytvは読売新聞グループの別会社であって、NTVはytvが制作した鳥人間コンテストをネットワークに配信するだけなので、ytvと取り違えてNTVを批判するのは誤りである。

収録のことをytvでは「鳥人間コンテスト選手権大会」と呼び、会場では「テレビ番組の制作を目的とした競技会」と周知している。従って鳥人間コンテストには、他のスポーツのような「テレビ局以外の主催者」が存在しない。プロ野球やJリーグなどのプロスポーツ、オリンピックなどのアマチュアスポーツはいずれも、大会主催者がテレビ局に放映権を販売しているわけだが、鳥人間コンテストは大会運営自体をytvが実施している。
これは鳥人間コンテストがバラエティ番組だからだ。鳥人間コンテストの前身は「びっくり日本新記録」で、40代以上の方は懐かしく思い出されるだろう。現在で言えばサスケなどに似た、視聴者参加型のチャレンジ番組である。「湖に飛び込む」から「飛行機で飛ぶ」になっても、番組の趣旨はバラエティ番組から変わっていない。だからテレビタレントもレポーターではなく参加者として出場するし、お笑い芸人が学生や応援団をいじって笑いを取るフォーマットが続いている。

参加チームはいずれも、自費で飛行機を作って持ち込んでいる。機体製作費や輸送費はもちろん、会場までの旅費やギャラも支払われない。その点でバラエティ番組の「芸人」とは異なり、あくまで視聴者参加番組の参加者である。参加者は「晴れ舞台を無料で用意してもらい、テレビに映ることができる」というメリットを享受し、ytvは「会場にかかる経費を負担すれば参加者が自分で来てくれる」という、相互に利益のある関係になっている。ただし、それが「対等な関係」と言えるかは議論の余地がある。
1機の人力飛行機を作るには、材料費だけでも100万円以上かかるだろう。工具や飛行試験の経費、出場のための旅費や輸送費を含めれば数百万円に達する。鳥人間コンテストの優勝賞金は100万円だから、賞金目当ての出場はあり得ない。

出場を希望する人は、3月頃までに出場申請書類をytvに送る。この時点で必要なのは三面図と説明資料であり、機体が完成している必要はない。選考結果が発表されるのは4月末頃だが、そのときに選考理由は明かされない。実際、前年の大会で中位の成績のチームでも落選することはよくあるし、番組を見てもわかるように「よく飛びそうなチーム」ばかりを選んでいるとも思えない。
なお、学生チームに芸能人やスポーツ選手が搭乗することがよくあるが、これは100%、ytv側から「番組側で用意するパイロットを乗せるという条件で出場を認める」という通知が来た場合である。学生達にとっては、入学以来鳥人間コンテストを目指してトレーニングを積んできたパイロットを見捨てろと言われているに等しいし、パイロットは「自分が乗れないなら出場するな」とも言えないので、苦渋の選択である。もちろん、パイロット変更を拒否すればチームの合格は取り消され、不合格チームのどこかに「パイロット変更を条件に出場しないか」という連絡が入るのだ。

このように、単純な「テレビで放映されるスポーツ大会」でも「芸人が体を張って楽しませるバラエティ番組」でもないのが鳥人間コンテストなのである。

鳥人間でも異常な「離陸前に主翼折損」

2007年の鳥人間コンテストには九州工業大学の鳥人間サークル「KITCUTS」が出場し、パイロットとして川畑明菜さんが搭乗していた。この機体はプラットホーム上で滑走を始めると主翼が大きく上にたわみ、左主翼がほぼ中央部で折損。プラットホームから離れた機体はそのまま左に横転し、千切れた左主翼の破断箇所が水面に接触。このときの衝撃で川畑さんは振り落とされ、背中から湖面に突っ込んだ。
鳥人間コンテストを見たことがある人なら「離陸後に翼が折れるのはいつものことだろう」と思うだろう。しかしこのときの壊れ方は、鳥人間コンテスト経験者から見ても異様なものだ。この機体は「離陸前に翼が折れた」のだから。

離陸前の主翼に加わる力は、速度に応じた揚力(飛行機を持ち上げようとする力)だ。揚力は速度の2乗に比例して増加し、設計上の飛行速度に達すると、設計重量と釣り合う。プラットホームは下り傾斜が付いているため、先端に達する前後で飛行速度に達してまっすぐ水平飛行に入る。これが、正しく作られた人力飛行機の、プラットホームからの離陸だ。

揚力は飛行機を持ち上げる力だから、わかりやすいように風船の浮力に例えて説明してみよう。10kgfの浮力を持つ風船に、10kgfの力では切れない紐を付け、10kgのおもりを付けると、風船は上昇も下降もしない。これが飛行機が水平飛行しているのと同じ状態だ。飛行機の揚力は速度の2乗に比例するので、速度が遅いうちは飛行機は浮かばずに車輪で走るが、揚力が重力に釣り合うまで速度を上げると、飛行機は浮かぶ。

鳥人間コンテストでよく見られる主翼折損は、離陸後に起きている。ひとつめのパターンは、離陸の瞬間だ。それまで車輪に乗っていた荷重が全て主翼に掛かると、強度不足の機体では耐えきれずに折れてしまう。滑空機部門ではパイロットが自分の脚で走るため、飛び乗った瞬間に折れてしまうことがよくある。風船と紐に例えるなら、10kgfの風船に10kgのおもりを吊った瞬間に紐が切れるイメージだから、紐(機体構造)が弱すぎたことがわかる。

もうひとつは、急降下した機体を引き起こす時だ。離陸時に水平にバランスを取れなかった機体は急降下してしまう。これを引き起こそうとすると、機体重量以上の力がかかって主翼が折れてしまう。あるいは急降下時の速度増加に耐えられずに壊れることもある。これは、風船にガスを入れて浮力を12kgfに増やし、10kgのおもりを12kgfの力で引っ張り上げようとしたら紐が切れてしまったイメージだ。

しかし、この事故ではプラットホーム上での滑走中に折れている。プラットホーム先端へ向かって加速している最中だから、揚力はまだ設計値に達しておらず、主翼に加わっている荷重は設計値を下回っている。揚力が不足する分の重量は車輪に乗っているので、もし重量オーバーがあっても主翼には荷重はかかっていない。にもかかわらず、大きく上に反り返った主翼は、ぽっきりと折れている。これほど強度が低い機体が出場して飛ぼうとした例は、少なくとも近年は記憶にない。
風船に例えれば、風船の浮力が8kgfしかないのに、10kgf以上の張力に耐えるはずの紐が切れてしまったイメージだ。ちなみに一部で重量増が原因という説が出ているようだが、ここまでの説明で間違いだとわかるだろう。10kgで設計されていたおもりが実際は12kgあった場合でも、8kgfの風船を付ければ紐にかかる力は8kgfしかない。紐が10kgf以上の力に耐えられれば、この時点で切れるはずはない。

飛ばなくても、滑走するだけで壊れる人力飛行機。なぜそのようなものに人を乗せて飛ばしてしまったのだろうか。

何の裁判なのか

この裁判が、誰に何を訴えた裁判なのかについても、整理しておこう。よく見掛ける誤解として「読売テレビに4305万円を支払うよう要求した」というものがあるが、これは間違っている。

この裁判の原告は負傷したパイロットである川畑明菜さんだが、被告はytvだけではない。訴状にある被告は以下の通りである。

  • 松本憲典氏、古賀俊之氏、稲田安浩氏、菅原賢尚氏、佐藤喬也氏。この5氏は当時、九工大KITCUTSのリーダーや設計者を務めていた元学生である。5氏は同じ代理人(弁護士)がまとめて同じ書面で答弁しているため、今後はまとめて「チーム側」と表記する。
  • 平木講儒氏、国立大学法人九州工業大学。平木氏は当時(現在も)のKITCUTS顧問である。平木氏と九工大は、同じ代理人(弁護士)がまとめて同じ書面で答弁しているため、今後は「九工大・平木氏」と表記する。
  • そしてytv。

この3つのグループが被告であって、訴えは「被告が連帯して」支払うこと、である。つまり「責任はチームにあるのではないか」という疑問に対しては「チームも訴えられている」と言えるし、どの被告がいくら払うかの比率は裁判で決まる。
また、4305万円というのは、障害の程度に応じて自動的に算出される損害額であって、この金額をまるごと支払うということではない。もし、パイロットの自己責任が99.7%、チーム側と九工大・平木氏とytvの責任がそれぞれ0.1%という判決であれば、各者の支払額は4万円ずつである。つまり、この裁判で争われているのは「パイロットに責任はないか」ではなく「パイロット以外に責任はないか」なのである。

それでも、事故の責任はチーム側にあってytvにはないのではないか、という疑問もあるだろう。
被告の主張の要点を要約すると、こうなる。チーム側は「安全確認の義務はytvにあり、我々にはない」である。ytvは「安全確認の義務はチーム側にあり、我々にはない」である。つまり、1つの裁判で「責任はチーム側にあるのか、ytvにあるのか」を争うにはytvを訴えるしかなかった、と川畑さんは言った。私は「いや、ytvには証人として、チームの責任を証明する証拠を出してもらえば良かったのではないか」と聞いたことがある。しかし、ytvは証人を引き受けるのを拒否したうえ、チーム側に対する指導なども断ったため、責任があると判断したということだった。

かくして、訴えられた各者は「自分に責任はない」という主張を展開するわけだが、その内容は次回から述べていきたい。

鳥人間コンテスト事故の深層 第0回:何故この件を問題にすることにしたのか

鳥人間コンテストの事故について、裁判の手続きが進められている。この件については様々な立場の人から様々な意見が出ているが、そろそろ裁判で明かされたことや、鳥人間の内部事情について詳しく述べ、多くの方に鳥人間の実情について議論を喚起したいと思う。そこでまず、なぜ私が鳥人間の問題を広く知らせようとまで考えるに至ったか、その理由から説明することにした。

事故について知った経緯

私が初めて事故について詳しく知ったのは、2012年の後半のことだ。私は1992年に初めて学生チームで鳥人間コンテストに出場し、2005年に社会人チームで出場して以来、鳥人間コンテストに対してはあくまでOBという立場でいた。宇宙開発を仕事とするようになってTwitterで意見やニュースなどをTweetしたりしている中で偶然、事故の当事者である川畑明菜さんと会話になり、川畑さんのプロフィールから事故について知った。その前にも何かひどい事故があったという噂は聞いていたが、詳しくは知らなかったのだ。
話を聞いてみると、それは想像以上に酷いものだった。事故の内容とその後の経過については他の回で書くが、それだけで済まされなかったのは、彼女にアドバイスをした第三者の鳥人間経験者達の発言が問題を悪化させていたことだった。彼女は私より前に、他の鳥人間経験者に相談をし、助けを求めていた。彼らの発言内容については川畑さんの記憶に頼るしかないため個人名は明記しないが、多くの経験者は「事故を起こさないようにするのが当然で、事故を起こしたのは自分の責任だ」という意見に終始し、議論は「今後どうすれば事故を防げるか」という技術的な視点でのみ進められたという。
未熟な鳥人間チームが事故を起こしたのは確かにチームの責任だが、そのチーム内で負傷したパイロットが放置されているのはおかしい。後遺症に苦しんでいるパイロットに助けの手を差し伸べるべきではないのか。そう主張し反発した若手も幾人かはいたが、聞き入れられなかったようだ。そんな中で川畑さんの鳥人間経験者に対する不信感を決定的にしたのは「事故について騒ぎ立てて、鳥人間コンテストが開催できなくなったら君の責任だ」という言葉だったという。いや、正確にはそうは言っていないかもしれない。もっと別の言い方だったのかもしれないが、彼女はそう理解してしまった。また、「鳥人間コンテストで怪我をしても自己責任だから、裁判に訴えても無駄だ」と言われたという。

時効まで隠された「刑事事件」

それはおかしい。私は趣味でパラグライダーをしているが、パラグライダーの製造者やフライトエリア管理者が原因になって事故が起きた場合でも、「自己責任」を理由にパイロットだけが責任を負うことはない。負傷したパイロットや、死亡したパイロットの家族が訴えを起こすこともある。場合によっては業務上過失傷害罪になることもあるのだ。このことを川畑さんに話すと、彼女は「犯罪ではないから訴えても無駄だと言われた」と驚き、信じられないという口ぶりだった。そこで、スカイスポーツの事故事例に関する資料を見せたりして説明したところ、彼女は東京都内の警察署を訪れて事の次第を話した。
警察官の答えはこうだった。飛行機が壊れたせいで怪我をしたのであれば、業務上過失傷害罪の可能性がある。また、ルールに「参加者の都合で辞退できない」と書いてあれば、強要罪の可能性がある。もしこの事故が東京都内で起きていたら、警視庁は告発を受けて捜査を行っていただろう。事故現場は滋賀県内だから、実際は滋賀県警でないと捜査できない。そして、業務上過失傷害罪の時効は5年だ。
事故が起きたのは2007年の夏、私が事故の詳細を聞いたのは2012年冬。この時点で既に5年が経過しており、時効が成立していたのだ。しかし、彼女が相談した鳥人間経験者達は彼女に「訴えても無駄だ」と言って、彼女にそれ以上の行動を思い止まらせてしまった。刑事事件になる可能性があった事故を、時効まで隠し通してしまったのである。
このことは川畑さんにとっても非常に残念な結果を招いた。もしこの事故が警察の捜査対象になっていれば、証拠として機体の残骸や設計資料などが差し押さえられ、関係者は事情聴取を受けていただろう。しかし川畑さんはずっと話し合いだけを模索し、民事訴訟に踏み切ってもチームから証拠が出ない中で、ほとんど機体の三面図とテレビ放映のDVDだけを手掛かりにした立証をせざるを得なくなっている。また、もしも刑事裁判で有罪となっていた場合、被害者の立場から民事訴訟を起こしても、バッシングを受けることはなかっただろう。

鳥人間が法律論を避ける理由

何故、鳥人間経験者はそうまでして事故を穏便に片付けようとしたのだろうか。以前のブログ記事で、読売テレビのスタッフは「事故が公になれば番組が打ち切りになる」と言ったと書いた。そして女性自身の記事後、私がこの件を話題にするたびに鳥人間の内輪では「大貫は余計なことを言うな」という声が上がり、改革を訴えれば「貢献していない大貫に資格はない」と声が上がる。第三者から見れば、触れられたくないことがある閉鎖コミュニティの典型的リアクションであることに容易に気付くだろう。
鳥人間コンテストのアキレス腱は、人力飛行機が法的に非常に厄介な立場にあるということだ。航空法では、人が乗る飛行機は国土交通省に届け出て許可を得なければならないことになっている。そして、届け出なくても良いという例外がいろいろ定められているが、人力飛行機はその例外規定のどれかに当てはまるようにも見えない。つまり、人力飛行機がまともに飛ばなかった頃は「飛行機ではない」と言えたのが、だんだん飛ぶようになってきたことで違法性が出てきてしまっているのだ。
こうして、鳥人間の間では法律の論議はタブーになった。まして裁判になどなれば、航空局の審査を経ずに飛ばしたことの是非も論点になりかねない。その結果として、鳥人間というコミュニティは後遺症に苦しむ仲間を見捨て、第三者の批判を受けないことを優先してしまったのだ。
ここで私も、懺悔しなければならない。私も川畑さんに相談を受けたとき、まず「法的手段に訴える前に話し合いで解決できないか」と話してしまった。そのため一時、川畑さんに「この人も、裁判を起こさないよう説得するのが目的だ」という誤解を与えてしまった。私も同じ鳥人間の常識に浸かっていた人間だったのだ。その誤りを正してくれたのは、スカイスポーツだった。

鳥人間はスカイスポーツか

スカイスポーツはいくつかあるが、飛行機で空を飛ぶスポーツで日本でメジャーなのは、大学の航空部などが飛ばすグライダーと、ハンググライダー、パラグライダーの3つだろう。
このうちグライダーは、航空法に定められたれっきとした航空機だ。だから国土交通省に機体、飛行場、飛行計画などさまざまな内容を届け出ている。学生団体であってもそれは変わらない。そして公益財団法人日本学生航空連盟(JSAL)などを中心に、OBらが協力して学生の指導や大会運営を行っている。
ハンググライダーとパラグライダーは、航空法上の航空機の扱いから免除されている。その代わりに、公益社団法人日本ハング・パラグライディング連盟(JHF)などの団体がパイロットやフライトエリアなどの安全管理を自主的に定めており、機体の安全審査はヨーロッパの業界団体が行っている。
これらのスカイスポーツに共通するのは、パイロット達の自主的な努力により安全を守っているということだ。団体も大会もパイロットが運営するものであり、パイロットの安全を守ることはすべてに優先する。事故が起きればその情報は広く周知され、みんなで対策を考える。それは自分達の命を守ることであると同時に、自分達の手で「空を飛べる日本」を守り続けることでもある。事故を他人事として放置すれば、スカイスポーツに対する国民の視線は厳しくなり、より厳しい法制度を作られたり、フライトエリア近隣住民の反対を招く可能性もあるのだ。ちなみに私が所属するJHFの会員証には、このような「フライヤー宣言」が記載されている。

  1. 自分の意思と責任でフライトします。
  2. 自己の健康管理を行い、健全なフライトをします。
  3. 社会のルールを守り、第三者に迷惑をかけません。
  4. 自然を大切にします。

鳥人間はチームと読売テレビの全員が利益を享受するものだ。だから、基本的に自分だけのために飛ぶハンググライダーやパラグライダーと異なり、自分の意思と責任だけで飛ぶことができない。にもかかわらず、パイロットだけに責任を押し付け、負傷したパイロットを皆で援護しようとしないのが鳥人間というコミュニティだった。現在も少なからぬ鳥人間関係者からは「無関係な我々を巻き込むな」と声が上がる。こういった実情を知ったスカイスポーツ関係者からは「鳥人間はおかしい。どうしてこんなことが続けられているのか」と驚きの声を浴びせられた。そしてこうも言われた。「大貫はスカイスポーツをしているのに、どうして鳥人間の異常性に気付かないのか」と。

ちなみに鳥人間には、JSALやJHFような競技団体の法人は存在していない。法人といえば、鳥人間コンテストの主催者である讀賣テレビ放送株式会社ぐらいだ。

鳥人間は持続可能かを問い掛ける

鳥人間コンテストは、スカイスポーツとは似て非なるものである。今後、このブログでは鳥人間の実情を取り上げ、より幅広い方々に考えて頂きたいと思っている。鳥人間コンテストが果たしてきた役割は大きく、鳥人間チームの活動は素晴らしいものだが、現状を放置するのは非常に危険だと私は考えているからだ。
もし私の考えが「余計なこと」であり、鳥人間コミュニティが充分に健全で社会常識に沿ったものであれば、このブログに何が書かれようと鳥人間コンテストはこれまで通り続いて行くだろう。もし私の考えが正しく、今の状況のまま鳥人間コンテストが続いていけば、いつかまた参加者が事故の犠牲になり、鳥人間は大きな非難を浴びて継続不可能になるだろう。では第三の可能性はあるのか?それを問いかけるためにブログを書いていきたい。

イプシロンロケット、打ち上げ中止より重要な「失敗」

DSC02702日本の新型ロケット、イプシロンロケットの1号機が9月14日に再打ち上げに挑む。8月27日に発生した「居座り」への対応を施したうえでの再チャレンジだ。
イプシロンロケットはメディアで「応援するべき話題」と定義されているようだ。メディアは、叩いていい相手だと決めたらとことん叩くが、応援すべき相手だと決めたら少々の問題は目をつぶってくれる。私は以前、あるメディアの方に「我々が『はやぶさは失敗』と判断すれば、それは失敗なんですよ」と言われたことがある。今回は「失敗ではないと判断することにした」のだろう。宇宙開発の現場にとってはありがたいことではあるが、評価が甘くなるようなことがあればそれはそれで宇宙開発のためにならない。ここは敢えて、厳しい分析をしてみよう。

打ち上げは「中止」
2013年8月27日、イプシロンロケット1号機の打ち上げが、カウントダウン0秒で中止された。実際には19秒前に自動停止しており、そのあとはカウントダウンを読み上げ続けただけなのだが、現地の観覧席や、一部のテレビ局やネットの生中継では、0秒を過ぎても打ち上がらないイプシロンを見て大騒ぎになった。こういった打ち上げ中止は、以前ならメディアで「打ち上げ失敗」と大きく取り上げられたが、今回はそういう見出しはなかったようだ。現地の広報には記者から「これは失敗ですか?」という質問があったが、丁寧な説明に納得したようだ。むしろ失敗ではないということの説明を求めたのだろう。
私は今回、初めてメディアとして打ち上げに臨んだ。そして打ち上げ前日と、当日の記者会見に出席した。森田泰弘プロジェクトマネージャー(プロマネ)は打ち上げ前日、End-To-End試験で通信系のトラブルを発見するなど充分な試験を行っており、自信があると語った。一方、打ち上げ中止後の記者会見では、記者から「打ち上げ中止して、自信はどうなりましたか?」という少し意地悪な質問が出たが、それにも「正常に止めることができた。自信を持っている」と答えた。そんな質問、しなくてもいいのになあと思ったものだが、これが後に意外な形で現れる。

DSC02659IT屋が驚いた、中止理由
打ち上げ中止から3日後の8月30日、原因調査結果の詳細が発表された。その内容はメディアに繰り返し質問されるほどわかりにくいものだった。いや、メディアにとってわかりにくいものだった。わずか0.07秒の信号の遅れで、コンピューターが打ち上げを止めてしまったというのだ。なるほど、宇宙開発とはこれほど精密なものなのか、という感想を持った人も多かったようだ。
ところが、Twitter上で宇宙開発に関心を持つ人達、通称「宇宙クラスタ」の反応は少し違った。宇宙クラスタにはプログラマーやシステムエンジニアなど、IT系の本職を持つ人が多い。彼らには、思い当たる節があったのだ。
0.07秒の問題を日常的な例に喩えると、こういうことになる。AとBの2人が、あらかじめこう決めておく。「AはBに、0時ちょうどに電話をする。Bは、0時に電話がなければトラブルと判断する」と。Aは予定通り、0時ちょうどに電話を掛けた。ところが、発信ボタンを押してからBの電話の着信音が鳴るまでには数秒かかる。これを待たずにBは、電話が掛かってこないからトラブルと判断してしまった。
いや、なんで数秒程度待たなかったの?0時ちょうどって言っても0秒とは言ってないでしょう。普通の人間ならそう考えるだろう。しかし、イプシロンでこの判断をしたのは、コンピューターだ。コンピューターは待ち時間を教えてやらなければ、0.01秒たりとも待ちはしない。人間に言われた通りのことを忠実に実行してしまったのだ。
IT屋にとって、これは常識だ。通信をしている以上、わずかとはいえ時間の遅れは生じる。だから、受信する側は相手の通信が届くのを「待つ」必要がある。ではどのくらい待っても来なかったら異常なのか?その値を設定し忘れればゼロ秒、つまり一切遅れを認めないことになる。ごくありふれた失敗であって、宇宙開発が精密だとかそういうことではないのだ。どうしてそんなことが起きてしまったのか。

大丈夫だと思った
ロケットを発射台に立てた最終リハーサルは、8月20日と21日に予定されていた。地上設備とロケットを本番と同じ状態で接続して行われる最終確認だ。しかし20日は技術的な問題が見つかったため(見つけるためにやっているのだからこれは悪くない)、21日は悪天候のため、リハーサルを完了することができなかった。
リハーサルを再度やり直せば、打ち上げ日自体が遅れてしまう。検討の結果、これまでに実施した試験で問題ないと判断した。しかし、実際に起きたトラブルは、リハーサルを最後まで実施していれば発覚するはずのトラブルだった。日程が詰まっているので、試験未実施でも大丈夫だろうと判断したら、結果的に問題が出てしまったことになる。

1日も早く
さて、私は8月27日の打ち上げ中止後に開かれた奥村直樹JAXA理事長、山本一太宇宙担当大臣、福井照文部科学省副大臣、葛西敬之宇宙政策委員会委員長の会見に出席していたが、私は彼らの発言に違和感を感じていた。奥村理事長が「原因究明が重要」と繰り返したのに対し、他の3人は「1日も早い再打ち上げを」と発言したのだ。原因究明と1日も早い再打ち上げ、どちらも重要ではあるが、どちらが重要かと言えば原因究明だ。
もちろん、打ち上げが1日遅れるごとに経費は余分にかかる。しかし、不自然なほど、判で押したように発言が揃っていた。イプシロンロケットの打ち上げは多方面から期待されている。来年度予算で次期基幹ロケットの開発に着手するためにはイプシロンの成功は強い後押しになるだろう。9月には概算要求の審査が始まる。またイプシロン自体、ベトナムの衛星打ち上げ受注を目指しており、まずは1機成功する必要がある。
イプシロンロケットの開発スケジュールはひっ迫していた。正月も返上して開発作業が進められていた。そんな状況で、最後にソフトウェア開発にしわ寄せが行ったことは想像に難くない。発射場へ運ぶ途中、運送会社の技術的問題で到着が遅れた。さらに、発射場に到着してからのトラブルで、打ち上げ日を22日から27日へ変更した。1号機でトラブルが起きるのは当然であり、それを改修するための日程上の余裕が不足していた。そして、わざわざ打ち上げ日を変更した後も充分な余裕がなく、リハーサルを完全に行えないまま打ち上げ日を迎えた。充分な余裕を現場に与えないプレッシャーがあったのではないか、という想像をしてしまう。

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Mロケットの遺伝子
イプシロンロケットは、7年前に志半ばで打ち切られたM-V(ミューファイブ)ロケットの後継機だ。Mシリーズは東京大学の糸川教授に端を発する純国産固体ロケットだ。NASAからの技術導入で進めてきた現H-IIAロケットのシリーズとの大きな違いのひとつに、属人的な開発手法がある。各部分を教授が個人的に担当していたのだ。このため、大量の書類を作成するNASAの手法と異なり柔軟に技術開発することができ、実際の打ち上げでも「作った○○先生がOKと言えばOK」という、実におおらかでシンプルなスタイルだった。
Mロケット時代は、全ての計器を人が見ていた。その部分を作ったその人が、だ。だから、少しでもおかしいと感じれば止めることができるし、この程度ならおかしくないと思えば進めることができる。たとえば今回のように、データが0.07秒遅れて送信開始された程度なら、人間の目では歯牙にもかけなかっただろう。
しかしコンピューターは、その判断ができない。とにかくプログラムとパラメータの通りに判定してしまう。つまり、人間がどうやってその判断をしているかを全て数値化してセットしなければ、人間と同じ判定結果にはならないのだ。そこを徹底的に作り込みさえすれば、後は人間が介さなくても自動的に動くシステムができる。作り込まなければ異常な動作をする。
「大丈夫だと思った」という判断は、どちらかというとMロケットを思わせる。ロケットそのものは大丈夫だったが、コンピューターが自動的に打ち上げを行うイプシロンロケットでは、ソフトウェアの成熟度が大きなカギを握っていたのに、そこを充分にチェックしきれずに打ち上げに臨んでしまった、そのことが「失敗」だったと、私は思う。

「総点検しろ!」
打ち上げ中止直後、森田プロマネは「問題解決に最低2日はかかるので、打ち上げは最短で3日後」と言った。これは、打ち上げ中止時のデータから原因がすぐにわかり、改修方法の目途がついたからだろう。しかし3日後に改めて行われた記者会見では、「総点検するので打ち上げ時期未定」ということになってしまった。
これは想像だが、恐らくJAXA上層部から待ったがかかったのではないか。単純なミスは誰にでもあることで、巨大なシステムであれば単純ミスも数が多くなるのは当然だ。それをチェックして直しきれなかったということを考えれば、1つの問題を解決してもほかの問題が隠れている可能性を疑わざるを得ない。打ち上げ中止直後には「自信がある」と語った森田プロマネは、「前のめりだった」とトーンを落とした。周囲が諌めたのかもしれない。
しかし、こうも考えられる。政府関係者の「1日も早く再打ち上げを」という声、そして3日で再打ち上げと報じてしまったマスメディアの期待に反してまで、JAXAは総点検を決定した。これは詰まりに詰まった打ち上げ準備日程にあえて余裕を持たせ、一度落ち着いてじっくり考えようと差しのべた救いの手でもあったのではないか。

失敗を糧に
もしロケットの神様がいるとすれば、神様がイプシロン開発チームの失敗に与えたのは罰ではなく、祝福だったのかもしれない。開発チームが仕込んでいた打ち上げ中止シーケンスが正常に作動することで、トラブルは打ち上げ失敗ではなく、打ち上げ中止で収まった。そして、JAXAは組織を挙げて、イプシロンチームを援助した。
M-V廃止以来7年の逆境に耐えて、イプシロンロケットは飛び立とうとしている。それに比べれば今回の状況は、むしろ追い風とすら言えるのではないだろうか。挽回の余地のある失敗は、真の成功へ向けての糧になる。そして糸川教授以来脈々と受け継がれる固体ロケットの遺伝子が、モバイル管制を備えたイプシロンへと新たな進化を遂げることを期待してならない。 DSC02651 (1280x851)

鳥人間コンテスト、あの報道後

※タイトルがわかりにくかったので変更しました。一部のリンクと違っていると思いますが内容は同じです。

ご存知の方も多いと思うが、鳥人間コンテストは今、訴訟のただ中にある。そのことが雑誌記事になり、その内容について私がTwitterに書いたことをかなり多くの人に読んで頂くことができた。なので、そのあたりの話は当該ページを見て頂く方が早いので、繰り返しここには書かない。

女性自身の記事

鳥人間コンテストの事故について、鳥人間の立場から考える

さて、この裁判については一部の関係者の間では当然、雑誌報道前から知られていた。そのとき、関係者が懸念していたのは次の2点だった。

  • 被告側の主張である「スカイスポーツはパイロットの自己責任」が今回は間違いであることを、うまく伝えられるか。
  • 読売テレビが慎重に進めてきたことを「テレビ局は番組収録中の事故を隠蔽した」と非難されないか。

前者は想像通り、現実に炎上した。しかし後者はほとんど見掛けなかった。これは非常に意外だった。
わかってきたのは、鳥人間コンテストという「大会」と、それを伝える「番組」は別のものであって、主体的に行動した大会出場者が番組制作者を訴えるのはお門違い、という理解が一般的だということだ。実際は大会運営全体が読売テレビの「視聴者参加型番組」の制作であり、大会参加者にはほとんど自主的な権限がないにもかかわらず。おそらくこれは、読売テレビ自身にとっても予想外だったはずだ。なぜなら、読売テレビは鳥人間コンテストでの事故が公になることをずっと恐れてきたからだ。

今も闇の中のMeister事故

今回、訴訟になっているのは2007年の九州工業大学チームの事故だが、その前年にも大事故は起きている。2006年、Meister(東京工業大学を中心とする学生チーム)の機体が護岸に激突し、パイロットは足首を複雑骨折する重傷を負った。後遺症も残った。
この後の経緯は、九工大とは対照をなす。Meisterのチームメイトは破損した機体を調査し、また写真や動画を検証し、まさに事故調査報告書と言うべき見事な文書を作成した。この真摯な対応にパイロットも納得したのだろうか、パイロットがチームを訴えることはなかった。言うまでもなく、パイロットは事故のリスクを承知の上で、最高の舞台に立たせてもらっているのだ。その結果が悪いものだとしても覚悟はある。
しかし、読売テレビの対応は芳しくなかった。事故を起こしたのはMeisterであって読売テレビの責任はない、と言ったのだ。これに怒ったのは東工大の顧問だった。「うちの学生に大怪我をさせておいて、責任がないとは何だ」と怒鳴り込んだ。驚いた読売テレビは、Meisterに見舞金を払う。そして、事故を公表しないように「お願い」した。
Meisterはこの報告書を公表するつもりだったようだ。報告書の内容は鳥人間の参加チームがどのように安全を配慮するべきだったか、どうやって責任を負うべきかについて論じた第一級の資料だ。全ての参加チームが読むべき貴重な記録だ。しかし現在もこの資料は、公式には秘密扱いとなっており、Meister関係者以外は閲覧できない。

事故が公になれば番組打ち切り

Meisterの事故報告書が九工大に渡っていれば、翌年の事故は起きなかっただろうか。それはわからないが、九工大とMeisterでは事故後の対応が全く異なっていたことは容易にわかるだろう。九工大では、チームはパイロットに対して何の対応もせず、事故報告書もパイロットの再三の要求でようやく簡単なものを作成しただけだった。大学側も読売テレビに噛みつくどころか、パイロットを放置して被告になった。しかし読売テレビの対応は、別の意味でMeisterのときと異なっていた。
チームとの交渉に業を煮やしたパイロットは2011年になって、読売テレビに仲介を依頼した。読売テレビが事故のことを知ったのはこれが最初だった。九工大は読売テレビに事故を報告していなかったのだ。読売テレビの鳥人間コンテスト事務局は即座に面会を求めた。そしてパイロットの話を聞き、顔面蒼白になったそうだ。若いアシスタントは気分を悪くして退席したという。彼らは事態の重大さと自分たちの責任を即座に理解したのだ。パイロットの川畑さんが私に話したところによると、読売テレビの担当者はこう言ったそうだ。「君のためにできる限り協力する」と。同時にこうも言ったという。「裁判になれば事故のことが公になり、番組は打ち切りになる」と。何とかして裁判をせず円満に解決してほしい、という痛切な願いだった。

そして、何も起きなかった

その後、読売テレビは対応を硬化させる。大学の責任を云々すれば自分達の責任も問われることになると気付いたのだろうか。「鳥人間コンテストは番組制作を目的とした競技会」であって、責任は参加団体にあるという主張に落ち着いた。大会開催に当たっても、参加チームに「安全を自分で確認するように」という通達を回した。事故が明らかになっても読売テレビの責任を問われないように、立場を修正したのだ。
だから、裁判のことが雑誌報道されても、読売テレビは何も動かなかった。読売テレビ側から参加チームに対しての説明もなかった。「公になったら番組打ち切り」にはならなかったのだ。あれほど公表に怯えていたにも関わらず、いざ公表されたら「それは自己責任だから」と流して大会を決行、今日は放送だ。
参加チームにしてみれば、自分達の我を通して番組が打ち切りになったら大変だと思うから、読売テレビの言うことには従ってきた。しかし、それが参加団体に言うことを聞かせるためのハッタリであることに、ようやく気付き始めている…いや、社会人チームはみんなわかっていたけれど、学生はまんまと信じ込んでいた。

報道後の鳥人間達の反応

一般論を思い出してみよう。こういう不祥事を告発した事例でまず起きることは「個別のトラブルを一般化して騒ぐことで全体に迷惑を掛けるな」という、内輪からの非難だ。今回、鳥人間の内輪ではそこまでの過激な反応はなかったが、「九工大は異常だ。普通のチームではこんなことは起きない。だから騒ぐ必要はない」という反応は、主に社会人に多い。
一方で学生チームからは、「安全策に関心はあるが、いま安全策を対外的に論じて読売テレビに睨まれたら、鳥人間コンテストに出場できなくなる」という声を複数聞いた。読売テレビが聞いたら逆に驚くだろう。読売テレビは各チームの責任で安全を考えてほしいのに、これまでの経緯から「事故の話をするのはタブー」というイメージを強固に植え付けてしまったのだ。
そして関係者全員に共通するのは、35年間開催された鳥人間コンテストに依存する構造だ。これほど巨大化し、確立し、そして唯一の存在である鳥人間コンテストが打ち切りになった時、どうしていいかわからない。テレビに依存しなければよりコンパクトな大会も可能、という発想に頭が回らない。だから、番組打ち切りにならないように臭い物に蓋をする。柔道の不祥事や学校のいじめ対応と同じく、問題の存在はわかっていても、みんなで目を背けざるを得なくなっているのだ。

正念場は来年か

今年の鳥人間コンテストは間もなく、無事に終了する。裁判が始まり報道された時点で、今年の鳥人間コンテストは準備が進行していたから、中止という選択肢はよほどのことがない限りなかっただろう。社会的に大きな騒動にならず、むしろ非難がパイロットに向いたことで開催に踏み切ったと思われる。
しかし来年はどうだろう。今年の大会でも、大事故にはならなかったものの事故寸前の危険な状況はあった。それも鳥人間コンテストの一般的なチーム水準から見て、当該チームの安全対策に特段の問題があったわけではなく、読売テレビ側も大きな問題はなかった。あったのは、あとから分析することで来年に活かすべき反省点という性質のものだ。しかし逆に言えば、鳥人間コンテストは手抜きをしなくても大事故を起こす可能性のある、リスク前提のチャレンジだということが改めて確認されてしまった。
人力飛行機と鳥人間はイコールではない。しかし、日本では35年かけて、この2つが一体化してしまった。誰もが鳥人間コンテストという番組を前提にしかものを考えられなくなっている。白紙からものを考え直して鳥人間コンテストが変革できるか。あるいは鳥人間コンテスト以外の選択肢を模索するか。それとも、見なかったことにして来年もそのまま続けるか。または…鳥人間コンテストの歴史が今年で終わるか。鳥人間は正念場を迎えるかもしれない。

放送後追記

本文中に書いた「大事故寸前の危険な状況」は、そのチームの出場自体が丸ごと放送されませんでした。そのこと自体の是非は判断が難しいところですが、後日この危険なフライトについても詳細にレポートしたいと思います。

2014年3月9日追記

本文章に対して「当時、Meisterは事故の報告書を秘密にしていないので、その点は事実誤認である」というご連絡を頂きました。私が秘密と表記したのは、2013年の時点で私に報告書のことを教えてくれた人が「本当は部外秘の資料だ」と説明したためです。

どちらか一方が正しく、一方が間違っているというよりは、報告書を作成した当事者は秘密にするつもりはなかったが、その後私に伝わる過程のどこかで秘密になってしまったのだろうと考えます。なお私はこの件について、たとえ秘密であったとしてもそれを理由に作成者を問題視するつもりは全くなく、このような報告書を作成した努力と見識に最大級の賛辞を贈るものです。

梯子を外された月着陸探査計画

半年振りの更新のあと、1日おきに更新というのも恐縮だが、続けて宇宙政策ネタである。

進まなかったSELENE2計画

月探査機「かぐや」を覚えているだろうか。SELENE計画として開発着手したのは1999年、打ち上げられたのは2007年で、月を周回して世界最先端の観測が行われた後、2009年に月に衝突してミッションを終えた。この計画が始まる前には様々な案が検討されており、その中には月着陸機を搭載する案もあったのだが、これは後継のSELENE2計画に持ち越されることになった。そう考えるとSELENE2計画は、SELENE計画で着陸機が搭載されないと決まった1999年には実質的にスタートしていたと言える。

その一方で、1998年から2000年にかけてH-IIロケット2機とM-Vロケットが立て続けに失敗するなどトラブルが続発し、2003年の宇宙機関統合まで日本の宇宙開発は混乱の時代を迎える。統合後も態勢の立て直しに注力して新規計画の着手は遅延、その隙を突くように情報収集衛星が予算を奪っていく格好になった。着手済みのSELENEの開発は進むが、SELENE2の開発は着手されなかった。

黒船「コンステレーション計画」来航

2004年、アメリカのブッシュ大統領は、2020年までに有人月面探査を再開することを発表。2006年にはコンステレーション計画の名で、月面基地の建設を長期目標とした継続的な有人月往復飛行が具体化された。当時はイラク戦争終結直後であり、新時代の世界秩序を構築する上でアメリカの覇権を宣伝する必要もあったのだろう。コンステレーション計画はまずアメリカのみで完結する計画として提示され、同盟国には「役に立つものを持ってくれば一緒にやってもいいよ」というスタンスだった。

一方日本では、2008年に宇宙基本法が成立。2009年に最初の宇宙基本計画が立案されると、そこにこのように記載された。

有人を視野に入れたロボットによる月探査
月は地球に近い成り立ちを持ち、太陽系の起源と進化の科学的解明に重要であるとともに、資源等の利用可能性についても未解明であり、月を当面の太陽系探査の重要な目標に設定する。我が国が世界をリードして月の起源と進化を解明するとともに、科学的利用や資源利用の可能性を探るため、将来的にはその場での高度な判断などを可能とする月面有人活動も視野に入れた、日本らしい本格的かつ長期的な月探査の検討を進める。
具体的には、長期的にロボットと有人の連携を視野に入れた以下の案を念頭において、我が国の総力を挙げ、1年程度をかけて意義、目標、目指す成果、研究開発項目、技術的ステップ、中長期的スケジュール、資金見積りなどを検討する。なお、我が国独自の目標を保持しつつ、各国の動向も注視し、国際協力の可能性も検討するとともに、実行に当たっては、適切な評価体制の下で推進する。

  • 第1段階(平成32年(2020年)頃)として科学探査拠点構築に向けた準備として、我が国の得意とするロボット技術をいかして、二足歩行ロボット等、高度なロボットによる無人探査の実現を目指す。
  • その次の段階としては、有人対応の科学探査拠点を活用し、人とロボットの連携による本格的な探査への発展を目指す。

少し長いがそのまま引用した。というのも、行数にして国際宇宙ステーションの約3倍も割いているのだ。内容もコンステレーション計画を意識して、アメリカさんに乗せてもらうのではなく、独自の無人探査を行いつつ将来の有人探査に参加するという野心的なものだ。二足歩行ロボットの新しさもあり、大きく報道されたことを記憶している方も多いだろう。

月懇談会の夢のあと

2009年7月から、日本独自の月探査を検討する有識者会議、月懇談会が開始された。折しも8月の総選挙で民主党が歴史的圧勝を収め鳩山由紀夫内閣が成立するが、月懇談会はそのまま実施された。2010年7月までに9回の会合が実施され、報告書が作成される。日本の月探査の第一段階は2015年の無人探査機着陸。これはSELENE2そのものだった。アメリカが2020年に有人探査をするまでに日本は月に複数のロボットを送り込み、無人探査拠点を構築する計画だった。

しかし日本の月探査に大きな影響を与えたのは日本の民主党ではなく、アメリカの民主党だった。2008年12月、バラク・オバマがアメリカ大統領選挙に勝利。翌1月に大統領に就任すると、コンステレーション計画の見直しを指示した。既に様々な問題を抱えていたコンステレーション計画は2010年2月、正式に中止が発表される。月懇談会は開始前から、前提となるコンステレーション計画に黄色信号が点灯、報告書が出来たときにはアメリカ側は撤退していたのである。

報告書は棚に置かれたまま、省みられることはなかった。2015年着陸を目指すはずのSELENE2は、開発着手されなかった。

梯子を外す宇宙政策委員会

2013年1月、宇宙基本計画が改訂された。月探査の記述は以下の通りである。

有人やロボットを活用した宇宙活動の推進により、人類の活動領域を拡大することを目指すこととし、長期的にロボットと有人の連携を視野に入れた、平成32年(2020年)頃のロボット技術をいかした月探査の実現を目指した検討を進める。

月懇談会で決まったはずの2015年の探査はきれいに消え、記述内容も激減した。そしてこの月探査の検討を担当するのが、有人宇宙活動と同じ宇宙科学・探査部会である。

第2回のJAXA資料ではSELENE2がまる2ページを割いて説明している。打上げ目標は2018年。宇宙基本計画に則ったものだ。

第3回のJAXA資料では、具体的な科学ミッションが列挙される。小惑星探査機「はやぶさ2」、X線天文衛星ASTRO-H、ジオスペース探査衛星ERG、彗星探査計画「ベピ・コロンボ」、次世代赤外線天文衛星SPICA、そして月着陸探査ミッション。このときの議事録にはこうある。

 (月着陸探査ミッションについて)
○月探査がここで示されることは奇異に感じる。(松井部会長)
●月探査については、基本計画にも記述はない。(事務局)

これはおかしなことだ。先述の通り、月探査計画は基本計画に明記されている。開発中の探査機ではなく将来構想なのは確かだが、それはSPICAも同じだ。しかしSPICAはそのような言われ方をしていない。

この結果第4回資料ではJAXA案として、SPICAは2014年度開発着手。月着陸探査は「研究を進める」と記載されるに留まった。

前回のブログに掲載した有人宇宙活動と同じく、こちらも関係者、特に大学などの研究者への影響は甚大だ。彼らは1990年代から月探査で何を調査するのか、を研究している。しかし探査機がいつ飛ぶのかは、さしたる意思決定もなしに先延ばしになっている。

日本の宇宙政策はいったいどのような責任を持って検討されているのだろうか。この間、2回の政権交代があったが、それによって政策が変わることも、委員が替わることもなかった。少なくとも政治は何も影響力を及ぼしていないようだが、だとすると誰の意思で動いているのだろうか。

消えた日本の有人宇宙開発

日本の宇宙開発は、内閣総理大臣を本部長とする宇宙開発戦略本部が方針を決定する。しかし、政治家が膨大な案を作成することができるわけではないので、事務局である内閣府に宇宙政策委員会が置かれ、ここで案が作成される。つまり実質的にはこの宇宙政策委員会が、日本の宇宙開発の方針を決定しているわけだ。

以下、宇宙政策委員会の資料はこのページから見ることができる。
http://www8.cao.go.jp/space/comittee/kaisai.html

宇宙政策委員会の中間報告

2013年5月30日、内閣府宇宙政策委員会の第15回会合が開かれた。この会合では、各部会から中間報告が提出され、「平成26年度宇宙開発利用に関する戦略的予算配分方針(経費の見積り方針)」が決定された。その名の通り、これから2014年度予算案を作成するために、日本はどんな宇宙開発をするのかをまとめたものだ。その中に、有人宇宙開発については以下のように記されている。

国際宇宙ステーション(ISS)については、費用対効果について常に評価するとともに、経費を削減する。特に、2016年以降は国際パートナーと調整の上、プロジェクト全体の経費削減や運用の効率化、アジア諸国との相互の利益にかなう「きぼう」の利用の推進等の方策により経費の圧縮を図る。

これが全てだ。日本の国家意思として何をしたいのか、何ひとつ書かれていない。単に「あんまりお金を掛けないでね」と言っているに過ぎない。

どんな議論が行われたのか

有人宇宙開発について、各部会ではどんな議論がされたのだろうか。有人宇宙開発を担当している部会は、宇宙輸送システム部会と宇宙科学・探査部会だ。このうち宇宙輸送システム部会は、将来有人宇宙船を開発するかという部分が含まれるわけだが、来年度予算の目玉は次期基幹ロケット、通称H-3の開発着手だ。H-3は有人宇宙船の打上げにも使われる構想だから、まずH-3に注力したのは理解できる。

問題は宇宙科学・探査部会だ。この部会は第1回の資料にこう記している。

部会の検討事項は以下の通りとする。
(1)我が国における学術を目的とする宇宙科学・探査の研究の動向
(2)上記の宇宙科学・探査の推進体制について
(3)多様な目的で実施される我が国宇宙探査の在り方
(4)国際協力を前提として実施される我が国有人宇宙活動の在り方
(5)その他

つまり国際宇宙ステーションをはじめとする有人宇宙活動はこの部会が担当だ。有人宇宙船が必要かどうかも、そもそも有人宇宙活動が決まらなければわからない。

第2回ではJAXA提出資料として、諸外国の有人宇宙開発の動向が挙げられている。これは議論の前提としてJAXAが事実関係をまとめたものだ。

第3回は、部会意見案として以下のように記された。

「将来的に国際協力を前提として実施される有人宇宙活動に対する我が国の対応については、外交・安全保障、産業基盤の維持、産業競争力の強化、科学技術等の様々な面から検討する」こととなっていることから、引き続き、宇宙科学・探査部会で検討を進める。

項目は挙がっているが内容はない。前回の資料を踏まえた整理は行われていない。

第4回でもこの文面は引き継がれ、そのまま部会意見として採用された。このとき、今後数年間の宇宙科学プロジェクトの計画を記したロードマップが作成されたが、この資料では宇宙ステーション関係については触れられていない。まるで宇宙科学・探査部会はISASとJSPEC関連の計画だけを検討する部会であるかのようだ。

この部会意見が第15回宇宙政策委員会に提出され、予算配分方針になったわけだが、何を根拠に「有人宇宙活動にはあまりお金を掛けないでね」という記述になったのか。部会意見は何も言っていないに等しいのに。

無視された宇宙飛行士

さて、予算配分方針決定後の6月11日に開かれた第5回の宇宙科学・探査部会では、各委員からロードマップに対する意見書を提出し、検討を続けることになった。私はこの部会後の記者会見に出席したのだが、そこで驚くべきことが起きた。

松井孝典部会長が、各委員の意見書を順に読み上げた。6人の委員の意見書を要約して読み上げたあと、最後の山崎直子委員の資料を手に取ると「あと、山崎委員からの資料です」と言って、読まずに置いたのだ。これには内閣府の事務方も各社記者も、えっ、と顔を上げた。

私は慌てて資料を見比べた。他の委員が言っておらず、山崎委員だけが触れている話題が、何かあるのではないか?それは容易に見つかった。

多様な政策目的の宇宙探査、有人宇宙活動プログラムに関しても、本部会で議論することとなっており、ロードマップにも将来的にそれらを反映する。その際、国際宇宙探査協働グループ(ISECG)における国際的なロードマップを参考にしていく。但し、本部会における議論がまだ行われていないことから、今後、ヒアリングや議論を十分にした後で策定してはいかがか。

有人宇宙活動について書いているのは山崎委員だけだったのだ。言うまでもなく山崎委員は宇宙飛行士であり、有人宇宙活動の専門家としてこの部会の委員を務めているのだから、有人宇宙活動に言及するのは当然だろう。しかも、これまで部会で全く議論をしていないことを直球で指摘している。これが読まれなかったことは、あまりにも露骨だ。

宇宙科学・探査部会は、有人宇宙活動について議論する気がない。そして宇宙政策委員会は、有人宇宙活動について「あまりお金を掛けないでね」という以上のことを決める気がない。このことがはっきしりた。

日本の有人宇宙活動の中核は国際宇宙ステーションの日本モジュール、「きぼう」だ。現在のところ国際宇宙ステーションは2020年までの運用が決まっている。その後は参加各国の話し合いが続いているが、国際宇宙ステーションは打上げから20年前後が経過し、老朽化が進む。地上施設も同様だ。単純に使い続けるのではなく、今後何をしたいのかを考えて更新していく必要がある。2020年に何かを始めるには今から開発を始めなければ間に合わないだろう。何をしたいのか、真剣に考えなければならない時期を迎えているのに、宇宙政策委員会はそれを考えないようにしている。

有人宇宙活動は、宇宙開発の中でも一般国民に最もよく知られ、親しまれているもののひとつだろう。費用的にも宇宙ステーション輸送機(HTV)関連を含めて毎年400億円を使っており、宇宙科学関係の250億円より多い。にもかかわらず、今後の方針を何も考えていない。このままでは日本の有人宇宙活動は、老朽化とともに消えてしまう。いや、それをこそ狙っているのではないか。

有人宇宙開発が自然消滅する

もちろん有人宇宙活動には、高い経費を払ってたいした成果を挙げていないという批判もある。有人宇宙活動自体を不要なものと考えて、現在の計画が終了したら有人宇宙活動そのものを終了するという選択肢もあり得るだろう。民間宇宙開発の発展を踏まえて、商業サービスの利用に軸足を移すのも有力な選択肢だ。しかし、そうするにしても政策決定は必要ではないのか。誰も「やめましょう」と責任を持って決定することないまま、JAXA職員や宇宙関連企業、そして宇宙飛行士や大学の研究者達に先の見えない仕事をさせるのか。それが日本政府の科学技術政策なのか。

折しも今、漫画「宇宙兄弟」がアニメや映画にもなって人気を博している。その舞台は2025年のJAXAだ。しかし現実のJAXAには、2025年には宇宙飛行士はいないかもしれないのだ。誰もその責任を負わないままに。

リメンバー・パールハーバー

またしても宇宙以外の話題。石が飛んできそうだな。

初めてパールハーバーへ行ってきた。

日本語ガイドツアーを申し込んだけど、最初はまずアリゾナ記念館見学。戦艦アリゾナは日本の真珠湾攻撃で爆沈し、1000名以上の乗員が戦死したという、アメリカ海軍史上最大の悲劇の地。しかもまず映画を見せられ、アリゾナ艦上を通り、歴史展示館を見るという順序。看板やパンフレットには至るところに「Remember,understand and honor」というフレーズが。おお、リメンバー・パールハーバー!これは日本人にとってはヘビーな場所だぜ。ヒロシマを訪れたアメリカ人もこんな気分かい?

映画はまず、アメリカ軍広報の女性が語りかけてくる。ここで起きた悲劇を理解し、アメリカのために死んだ兵士たちをいつまでも記憶しようと。ん?リメンバー・パールハーバー?

そのあとは歴史映像が淡々と流れ、解説される。ナチスドイツと同盟した日本に対する、アメリカ世論の高まり。日本の生命線であった石油の輸出禁止と日米の外交。連合艦隊出撃。運命の日を前にしたハワイの日常。意外なことに、日本が宣戦布告せず「だまし討ち」をしたということは語られない。

※少なくとも僕の英語力では聞き取れなかったし、言ったとしても強調はされていないだろう。ちなみに7ドル払えばレシーバーで日本語ナレーションが聞ける。

そして真珠湾攻撃の状況。レーダーに映った機影にも「心配するな」と危機感のない上層部。港外で特殊潜航艇との戦闘が始まっても警戒態勢を敷かない司令部。そこへ突入する攻撃隊により、炎上する太平洋艦隊。アリゾナ爆沈。救助活動。

どこにも日本への恨みごとはなかった。むしろ、これほどの情報がありながらアメリカ軍は大損害を防げなかったという事実を、淡々と説明していた。最後に短く、「アリゾナでは千名もの犠牲者が出たが、ここで始まった戦争ではさらに百万名もの死者を出すことになる」と説明した。戦争の映像が流れたが、原爆の映像はなかった。第二次世界大戦はパールハーバーの復讐ではなく、日米双方の悲劇として描かれた。でなければ、パールハーバーより桁違いに多い死者の数字を挙げる意味がない。百万という数字自体、日本側犠牲者数を含むものだ(アメリカだけなら30万人台)。

次に訪れたアリゾナ艦上は、言葉に表しがたい。今も艦から1滴ずつ湧き上がる重油が海面にぽつり、ぽつりと広がり、強い臭いを漂わせている。70年を経た今もそこでは、第二次世界大戦が終わっていなかった。

歴史展示館では、当時の世界情勢や日米の戦力、戦闘の模様などが客観的に説明され、日本の優れた兵器や戦術を高く評価していた。死体の写真も数枚はあったが酷さを強調するものではなく、サイズは小さい。むしろアリゾナと赤城の大型模型が並べて展示されるくらい、日米両軍の解説に力が入れられていた。赤城の模型に至っては、飛行甲板には攻撃隊が並び、整備員達が総出で手を振る出撃の様子が再現された勇壮なものだ。太平洋を超えて攻撃を成功させた日本軍への感嘆を表しているようだった。

Remember,understand and honor.

アメリカ海軍は、アリゾナ記念館で「恨みを忘れるな」と言ったのではなかった。悲劇を招いてしまった歴史、なぜそうなったのかを理解し、決して忘れないようにしよう。そして、このような歴史的失敗の中で命を落とした英雄たちの名誉を称えよう。それが彼らのリメンバー・パールハーバーだった。

話は変わる。日本では核兵器について議論しようという話が出ると、広島市長などからこんな話が出る。

「核の恐ろしさを知っていれば、そんな議論は起きないはずだ」

つまり核兵器のことを議論しようとするのは、核の恐ろしさを知らないからだというわけだ。核以外でも戦争や軍備、兵器について考えること自体を「戦争好き」と揶揄する平和論者が多い。

しかし、だ。悲劇の恐ろしさを知っていれば悲劇は繰り返されないのだろうか。恐ろしさだけを語り継いでいけば、戦争のない世界が来るのだろうか。

戦争を招いてしまった人も、ほとんどは戦争を起こしたかったわけではない。最もましな選択肢を選ぼうとして、戦争を起こしてしまった人がほとんどだ。小さな戦争に抑えようとして大きな戦争に発展してしまったこともあるだろう。彼らは好戦的だから戦争を起こしたのだろうと蔑み、自分達は戦争を憎んでいるから戦争など起こさないと考えるのは傲慢ではないか。

Remember,understand and honor.

戦争も、巨大事故も、悪意を持った愚か者が起こしたのではない。国のため、国民のためと努力してその地位に就いた者が、最善を尽くした結果起きたものだ。その事実を直視せず、自分は彼らのように愚かではないと考える者に、歴史は次の災厄を用意するのだろう。

ロクデナシの特例公債法

長いこと放置した上に、いきなり宇宙とは関係のない話で申し訳ない。関係なくもないけど。

ようやく特例公債法の目処が立ったようだ。特例公債法がないと国債を発行できない。今の国の収入は半分以上が国債だから、国債が発行できなければ国の財政が麻痺して大変なことになる。

ところで、そもそもどうして特例公債法なんてものが必要なんだっけ。「もと公共事業担当公務員だった者として」強調して確認しておきたい。

財政法第4条には、「国は借金を財源にしてはいけない」という趣旨のことが書いてある。つまり、国債を発行するのはそもそも違法行為なのだ。国債を発行するためには財政法を改正するか、あるいは例外を定めた法律を別途作る必要がある。そこで「今年はどうしても止むをえないので、今年に限って借金を認めます」と例外を定めるのが特例公債法だ。こうやって発行される国債を赤字国債という。

つまり個人に例えるなら、「今後、お酒は飲みません」と約束を書いた掛け軸を飾った前で「今夜に限って晩酌を許可します」という紙を毎晩書いているわけだ。だから午後(秋)になると、臨時家族会議(国会)を召集するのが日課だと。なんとだらしのない人でしょう!

ところが財政法には、国債を発行して良い例外が定められている。それは、公共事業費に充てる場合だ。道路を建設するために借金をしたとしても、その道路は今後何十年も先まで使われる。小さな子どもも、これから生まれてくる子どもも道路を使う。だから現役世代だけではなく彼らにも負担してもらいましょう、というのが趣旨。こういう国債は建設国債という。

もちろん実際には将来役に立たないものもたくさん作っちゃったわけで、それは節度や合理性に欠けていた。特にバブル崩壊後、景気対策として要らんハコモノをじゃんじゃん作っちゃった。そこで、財政再建の中で「建設国債を発行して公共事業をするのはやめましょう」ということになったのだが、もともと公共事業のために借金をする理由自体は筋は通っている。

それでは、現役世代の生活に使うお金、あるいは既に退職した人のために使うお金を、借金で賄うことにいったいどんな大義名分があるというのだろうか。どれほど生活が苦しくても、我々は「今あるお金」で生活し、借金をするのであればそれは子どもたちのためだけに使うのだという気持ちを持つべきではないだろうか。なのに、公共事業の方が「誰かが甘い汁を吸うための無駄な金」であるかのように言われ、福祉に使うことの方が正義であるかのような安易な理屈を付けて、自分達が甘い汁を吸うことばかり考えてきたのではないか。

「公共事業は無駄だ」と言って削り、税金を福祉に回すのがこの20年ぐらいのトレンドだった。でも公共事業に携わった者として、声を大にして言いたい。公共事業は本来、未来の日本を豊かにすることが目的だった。なのに、公共事業費の乗数効果を現役世代の雇用に充てることばかり考えてきたのが、そもそもの間違いではなかったか。公共事業を削った結果、雇用が失われて福祉に費用が掛かり、そのために国債を発行する。でも、福祉では何も残らない。
今の時代、次の世代に残せるものは公共事業だけではない。科学技術もそうだし、教育や様々な制度改正も役立つだろう。破壊された自然の復元や放射性廃棄物処理のように負の遺産を片付けることも、大切な公共事業だ。こういうことは建設国債と同様、借金をしてでもやる価値があるだろう。

特例公債法が通れば、今年度予算は息を吹き返す。しかし、それは「今日のお酒を飲めるのは、子どもたちのおかげです!」とツケで飲み食いしているロクデナシと変わりがない。どうせ借金しないとその日の生活もできないのであれば、せめて子どもたちに残せるもの、子どもたちを育てることに多く使うべきだ。

結論としては「借金するなら子どもたちのために」という、ごくありふれた話になってしまうのだが、そもそも借金は法律で禁止されているんですよ、ということを確認しておきたかった。

ちょっと長めの自己紹介

さて、宇宙開発の話を始める前に、僕のスタンスというか、基本的な考え方を話してみたい。僕の基本的な考え方が作られたきっかけは、大きく分けて3つあると自己分析している。

1つめ。意外に思われるかもしれないが、僕は宇宙飛行士になりたいと思ったことは一度もない。もともとは単に僕が近眼で、1985年の最初の宇宙飛行士選考基準から外れていたからだと思うが、その後緩和されても宇宙飛行士になりたいとは思わなかった。余談だが、金井さんが宇宙飛行士に選出されたときは「日本初のメガネ宇宙飛行士!」と喜んだものだ。

逆に言えば「たとえメガネでも宇宙へ行けるようになって欲しい」というのが僕の出発点だった。そこから広がると、たとえ勉強ができなくても、性格が良くなくても、近眼よりもっと大変な心身の障害がある人でも、あるいは大金持ちではなくても宇宙へ行けるようになって欲しい。そうなれば、僕は努力しなくても宇宙へ行ける、と考えたのである。かつて偉大なる人生の師、野比のび太は言った。「べんきょうして発明するんだ、べんきょうしなくても頭が良くなる機械を」。うん、まさにこれである。

2つめに、僕が高校時代から過眠症になったというのがある。もっとも過眠症だということを診断されたのは30歳頃のことで、それまでは自分が過眠症だとは気付いていなかった。過眠症というのは充分な睡眠をとっていても、ふとした眠気を我慢できない脳障害だ。いわゆる睡眠時無呼吸症候群のように、睡眠不足から来る眠気ではない。誰でも昼間にふと眠気が来ることはあるだろうが、それがノーブレーキで睡眠状態に突入してしまうのが過眠症だ。つまり、睡眠のスイッチが故障しているわけ。

高校受験では4校受けて第三志望で引っ掛かるという惨状だったが、4校中1校しかなかった私立大学附属校に入学することになったのは、後に考えると奇跡的なラッキーだった。高校に入ると授業では居眠りしてしまい、全くついていけなくなったからだ。まず英語ができなくなり、文系科目の成績がどんどん悪くなった。理数系は、高校レベルなら勉強しなくても普通の点数は取れた。しかし大学へ進むと、数学や物理もわからなくなった。

そんなわけで、大学生ぐらいから「計算しなくても大掴みで結論を導く」という考え方をするようになった。また鳥人間コンテストに出るようになり何かの間違いでチームリーダーをさせられると、自分で計算するよりも、僕より優秀な仲間や後輩が言っていることの調整をするほうが仕事になった。

3つめは、もともと僕がひねくれ者だということだ。幼いころから僕の周囲の人は、僕が人と違うことをするのを喜んでくれた。そんなわけで、僕は「みんなが好きな普通のこと」より「みんなが知らない面白いこと」の方が楽しいと思うようになった。ところがさらにひねくれたことに僕は、みんなが知らないから面白いにも関わらず、それを「知らなかった人が面白がってくれる」のがさらに面白いと気付いてしまったのだ。だから、興味を持ってくれた人には親切を通り越してお節介にもなるし、気がつくと自分の話ばかりしてしまう困った人になったりもするのだが。

結果として鳥人間、宇宙、パラグライダーが僕のライフワークになっているが、共通しているのはこれらの3つのスタンスだ。つまり、「自分がヒーローになりたいとは思わない」「わかりやすい言葉でシンプルに考えて伝えたい」「僕が面白いと思うことに共感してもらったとき、楽しくて仕方がない」だ。なので、そういう話を聞いて面白いと思う方がこのblogを読みにきてくれれば、それはとても嬉しいなって、思ってしまうのでした。